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二本松写真ニュース
5
2018年
(平成30年)
No.906
http://pnews.bine.jp
(1200×1700)
 5月1日(火)、本宮市高木の勝軍地蔵様で春祭りが行われた。母方の親戚遠藤さんに誘われて参加させて頂いた。場所は阿武隈川東側、山から張り出した尾根の先端。「中の橋」を渡って、高木寺前の県道を東側に500メートル程で愛宕様ヘの参道が現れる。どこの愛宕様にもある急な石段だ。石段の上は平地があり 奧に土藏作りのお堂がある。火伏せの愛宕様に相応しい。このお地蔵様、京都愛宕山から勧請され、高木寺内日吉神社の所に祀られていたが、度々火災があり、火伏せの神が低い場所にあるためと言う事で現在の場所に遷されてそれから霊験あらたかに火災が無くなったという(当日配られた愛宕権現縁起記から)。
 おそらくは本宮−高木間の「渡し」の見張場(本宮町史一巻・第五節中世本宮の諸相)の守り本尊として(戦国時代頃に)京都愛宕山から、京都と行き来のあった「さむらい」によって 渡し場東岸河岸段丘の上に勧請され、江戸時代、世の中が落ち着いてきて、もう「渡しの守護」でも無いだろうと、ここに遷されたのではないだろうか。そもそも愛宕将軍(勝軍)地蔵は軍神なのだから。今は「塞の神」「火伏せの神」でもありますが。ちなみに別当高木寺は平安時代、仁寿元(851)年の創建(高木寺の案内書から)。
 当日は快晴、飾り付けられたお堂の前には椅子が並べられ、受付済ませた参拝者には お菓子とお茶が配られた。お堂の中の厨子には、彩色された騎乗の勝軍地蔵様が祀られている。多分以前のお像だと思われるが、色あせたお像もある。また このお堂には、本宮市の文化財「高木寺の鰐口」があり、お祭の時だけ掛けられるが、当日も掛けられていて つぶさに拝見することができた。鰐口に刻まれている時代「大永四(異体字)1524年」は 二本松畠山七代・村国の時代(市史三巻・積達館基考)、お城は今の霞ケ城公園。
 午前10時から 別当高木寺住職により御祈祷が行われた。御祈祷の後には「鎮火災・増福のお札」、記念品、お饅頭が配られた。境内には 刻字は見えにくいが中世の梵字供養塔、天明4年の念仏供養塔(天明飢饉の供養塔)がある。総代さん達30人程が参加した。
午前9時56分、間もなく 御祈祷が始まる。
愛宕堂は 火伏せのご守護に相応しく、土藏作り。
受付を済ませた参加者には お菓子とお茶が配られた。 
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第一次公開2008−03−11
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