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二本松写真ニュース
2014年
(平成26年)
No.635
http://pnews.bine.jp
(1200×1700)
 12日(土)午後1時半から 二本松市郭内御城下新町の旧二本松区検察庁跡駐車場で第21次二本松城址発掘調査現地結盟界が開催された。今年は 応永21年(1414)に、畠山満泰が、白籏ケ峰に「二本松城」を築いてから600年の記念すべき年、秋には 企画展・講演会等が予定しているという。今回の発掘は 城下絵図等に記載のある「内大手」の位置の確定。藩史記載の「二本松御城郭全図」の該当すると思われる場所を対象とした。
@トレンチ、れんが片、陶器片などが出土、遺物は少ない、そこまでで「現在は」止めてあるという。
Aトレンチ、松の棒が出たが性格不明、なにかの土台ようなものも出た、江戸期の面まで掘り下げたが遺物は陶器片など少数。
BCトレンチ、北端は地山まで掘り下げている、竹管による水路パイプも出てきた、きれいな水がいまでも豊富に出て発掘調査の「障害」ともなった、明治期以降か。水路溝状に向かい合わせになった、石組み列が出てきた。北側の列は石材が幅奥行きとも30センチ程度でコンクリートが一部使われているので明治期か、もっとも列石に重なって出てきた大型石材3個はは性格が不明、また土止め状の木列も出たが性格不明。南側は幅奥行き共50センチ程度と石も大きく天端もそろえられていて、江戸期のものと考えられる、内大手の端が出たのかも知れないという。
Dトレンチ、東邦ゴム工場跡。盛り土1メートル弱、その下に水田の粘土1メートル弱の下に 江戸期の生活面が保存されていた。盛り土の中からはガラス片など明治以降の遺物、江戸期の生活面からは「キセル」「仏飯具」「貨幣」等が出土した。ここを侍屋敷とした地図もあるので、内大手の範囲は Dトレンチの北側まで、現在住宅が建っているあたりまでと考えられる。
 御城下新道の現「戒石茶屋」前の斜め状の道の西側は絵図では 空白、建物はない、武者だまりといった性格の場所か。戊辰戦争で郭内の建物は全て焼かれたがこの場所からは 火災の痕跡が出ていないことからも 建物がなかったことは言える。二本松城(郭内)の発掘では 江戸期と明治期の境目には必ず火災の痕跡が挟まっているので、層別がしやすいという。
 現地説明会に参加して 痛切に感じたこと、Dトレンチ、生活面が現地表から2メートルも下にある、低地だったと言うことなのだが、そのあたりの原地形を反映しているのだろう。郭内の「二ノ丁三ノ丁」と「新町」の間、いまでこそほぼ水平だが おそらく原地形は沢状の傾斜地で、中央部分には沢を描いた古地図もある、道から入ってすぐの宅地は平らだが゛、その奥は沢に向かって下がった地面だったに違いない。城下町を築くということ 丹羽入府以前の原地形を考えることも大事だ。そういうことを実感させてくれた 説明会であった。
 Dトレンチ出土品、
江戸期の生活遺物。
Aトレンチで 解説中、材木が一本出たが、性格は不明だという。
Bトレンチと 新町の 関係がわかるように撮影。
Dトレンチ 2メートルほどの深さ、原地形を彷彿とさせる深さ。
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第一次公開2008−03−11
二本松藩だより
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