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二本松写真ニュース
2014年
(平成26年)
No.595
http://pnews.bine.jp
(1200×1700)
 2月3日(月)節分の夜、二本松神社の豆まき。二本松神社と言っているがそれは明治以後のこと、それより以前は「御両社」だった。八幡神社と熊野神社を 同格に祀っているためだ。本殿は別々だが拝殿は一つ。
 二本松での掛け声は「おにーそとー」「ふくーうちー」、「福内鬼外」と称される。「ふくうちおにそと」とでも発音するのだろうか不明。
◆この掛け声の謂われについて、二本松藩の地誌とされる「相生集」に記載がある。「下巻・第17稿。風俗類に「福内鬼外」・p272、市教委発行」。『追儺の夜に煎り豆を散し福ハ内鬼ハ外と唱ふハ陰(鬼)を陽(福)を迎ふる意なりとて此事普通の恒典也、さるを我藩邸にてハ福ハ内鬼外と唱ふる事とす、是即鬼ハといひては国姓の丹羽のひゝきあれハかしこミてさくる也とそ、九鬼候にて此夜鬼ハ内といふ類なるへし』、江戸時代に既にこうだったわけだ。
◆ここ「栗ケ柵」に祀られた謂われについても「相生集」に 記載がある(下巻・第11稿。神廟類に「本町/熊野宮/八幡宮」・p17、市教委発行)。『治下鎮護の御神也さて此社勧請の説多端にて実を得るかたし、今百方考究して是を正す』として、諸説有るようだ。以下は私の説です。
1.一番初めは田地ケ丘、畠山高國建立、今も御両社がある、相生集。
  高國は 生誕、嘉元3年(1305年)、死没 正平6年/観応2年2月12日(1351年3月18日)、ウィキペディア。
2.白旗ケ峰(現霞が城公園)乙森へ遷す、その後熊野宮だけ西の廓「権現丸」へ遷座、相生集。
3.その後 今の戒石銘上 「権現ノ宮、八幡ノ宮」へ、鹿子館?、第13次二本松城址発掘調査現地説明会資料から。
3.その後 丹羽光重公(慈明公)城内の御両社を 寛文元年(1661)将軍は4代家綱、8月15日、
  栗ケ柵へ遷座、相生集。
 (相生集、入手しやすいのは「市教委」が発行した「翻刻相生集」現在でも入手可能だろう)。
 2月3日(月)、午後5時20分の撮影、境内には 100人ほどの人が集まった、
向かって右に「熊野宮」、左が「八幡宮」、普通の神社だと 両方同じです。
← 最初に 勧請された場所、
  二本松市田地ケ丘の畠山高國公建立の御両社の森、
  お祭りで旗が立っていた、
  右が 熊野宮 左が 八幡宮 栗ケ柵の御両社と同じ、
  2005(平成17)年10月10日の 撮影。
【 畠山高國 ウィキペディア 】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E9%A B%98%E5%9B%BD
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第一次公開2008−03−11
二本松藩だより
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